慶長7年(関が原の2年後)の春のことです。信幸公は領内巡察を行い、須川・新治村湯宿温泉に入湯に行きました。 それを聞いた村人達が娘を一人連れてきました。 「この娘は林将監どのの下女なのですが、狐に浸かれて困っております。お助けください。」 そこで信幸公が顔を見せると狐は離れ娘はすっかり元通りになりました。 〜〜真田氏と上州 みやま文庫 P120より〜〜〜
松代にて、信幸公が御隠居なさった後の話です。 ある日、信幸公は柴村の金井池で魚を取るように命令しまた。 すると網に奇妙なモノがかかりました。 それは丸い形をして、鉄のさびたような色をしていました。 石でもなく、土でもなく、金属でもなさそうです。 信幸公は 「この変なもの、生きているみたいだから持っていけ。」 と、この不思議な物体を鈴木右近にくれてやることにしました。 変な物体をもらってしまった鈴木右近は訪ねました。 「これ、どんなふうな名前で呼んで置いておけばいいのでしょう??」 信幸公はふざけて 「土金水とでも呼べば良いであろう。」 とおっしゃいました。この土金水がなまってやがて「とうかんす」と呼ばれるようになりました。 鈴木家では、この謎の物体を祠に治めて神として祭ったそうです。 〜〜〜信濃史料集第17巻 P309より訳〜〜〜
関ヶ原の合戦より少し前のお話です。 真田昌幸公と左衛門佐殿は大阪方に着き、信幸公は徳川方へ着きました。 徳川秀忠殿が上田城を攻め始めてしばらくして信幸公は伊勢山(戸石城)に備えをおいて、敵味方の様子をじっくりと観察なさっていました。 すると、昌幸公と左衛門佐殿が城の戸口でどちらが先に城へ入るか揉めているではありませんか。 そうする内にも徳川軍は昌幸公達目指してどんどん近寄ってきます。 信幸公は 「目の前で父が殺されるのを見るのは耐えられない。」 と馬を引き寄せ槍を持ち駆け出そうとしました。 それを見た祢津氏を初めとした真田の老臣達は馬の前に駆け出で行く手をふさぎました。 「何をなされようとしているのですか。」 「気でも狂いましたか。」 「今までの家康公への忠信を水に流すおつもりですか。」 「それならば、初めからお父上に(我らを)背かせないで欲しかった。」 と口ぐちに訴えました。 家臣の訴えを聞き入れ、信幸公は静まりました。 親への考に我を忘れる事があったと言えど、家老たちの説得に耳を傾け留まったのは忠義の心は素晴らしいと信幸公の評判は上がったのでした。 〜〜〜〜真田御武功記より訳
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