昔昔、真田幸隆という武将がいた。 幸隆には可愛い可愛い娘がいた。 娘は父親が知らない内に、天狗と良い仲になっていた。 ある戦の最中に、幸隆はふと娘のことが気に掛かった。 心配になった幸隆は戦が終わるとすぐに家に戻った。 すると、娘が天狗の子供を出産しているではないか。 幸隆は驚いて赤ん坊をほおり投げた。 しかし、赤ん坊は怪我一つせずに笑っている。 幸隆は急に赤ん坊がいとおしくなり、十文字の槍を与えて大切に育てた。 赤ん坊は後に「真田幸村」と名乗り、大阪の陣で十文字の槍をふるいおおいに活躍したそうな。 今も残る「安知羅様」の木像は幸村の子供の頃の姿を写したものだそうな。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜信州の民話伝説集成 東信編より引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
左衛門佐殿は誉れ高い勇士でありましたが、持つ刀が全てなまくらでございました。 不思議なことで、どんなに良く斬れる刀であっても、幸村殿がお腰に召されますととたんに切れなくなるので、左衛門佐公は何となく嫌だなあと思っていらっしゃいました。 大谷刑部殿(大谷吉継 後に左衛門佐殿の舅となる)はその話を聞いて、左衛門佐殿が見回りにいらした所を呼びとめ「来国俊」の刀を持ち出しました。 大谷「いつの時であったか、刀を取替えになった時にその刀が思いのほか切れぬ物であったため、大層不便をしたと聞いているが本当であろうか。 刀というのは切れぬ事もある物なのだ。 この刀は長さは短いけれども刃が強い。試し切りなどはしないで差しなさい。 私が何度か使った時には、五枚兜をかぶった頭をまるで水のように手ごたえ無く斬ることができたのだ。」 大谷刑部殿はそういうと、刀をしっかりと左衛門佐殿へとお渡しになりました。 左衛門佐殿は大層喜んで帰宅し、身近な家臣達を呼び出して全員に見せたのでありました。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜信濃史料集大18巻 左衛門佐君御事蹟 取捨録より一部訳〜〜〜〜〜〜〜〜
1620年の大阪夏の陣でのお話です。 真田信吉公と信政公が無事に大阪まで辿り着くと、「佐竹の殿様が豊臣方に蹴散らされた後の場所」に陣を張るように言いつけられました。 そこで真田家の家臣達は競って大阪城へ近いほうへ近いほうへと竹束を並べていきました。 (竹束を並べて少しずつ敵陣に近づく戦法です) 大阪城の天守閣からその様子を眺めていた豊臣秀頼公はおっしゃいました。 「昨日からあそこに見える赤い旗印は徳川の他の隊よりもこちらに押し寄せて抜きん出て備えを構えている。傍若無人の振る舞いである。 誰があるか。あの赤い旗印の隊を蹴散らせや。」 すると、真田左衛門佐が進み出ておっしゃいました。 「あの六文銭の赤旗は真田伊豆守の子供にございます。若い者であるので差し出がましく非礼の至りにございます。 それがしが出て行って踏み潰してご覧に入れましょう」 秀頼公は真田左衛門佐の意見を聞いておっしゃいました。 「真田家の子供であるならば若気の至りだ。放っておけ。」 もしもこの時、信幸公の御子息達がもっと近づいていたならば、家康側の真田軍は全滅して誰も生きて帰れなかったでしょう。 軍神の御加護があったのか、武運の尽きない為だったのか、何事も起こらずにすみました。 真田家は誠に御武運長久のお家にございます。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜吾妻記より訳〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
幸村公が九度山にいらっしゃった頃のお話です。 真田屋敷に雷が落ち、あたり一面を荒らして回りました。 そこで幸村公が雷を取り押さえ、井戸に御封じになられました。 里人達はこれで難を逃れられたと大層感謝したそうな。 〜〜〜〜九度山町 真田庵の井戸の説明書きより引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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