真田御家伝之事



<眞田 幸隆>が武田家に下った事が<村上 義清>の耳に入りました。
<武田 信虎>は味方でしたが、<武田 晴信>は大敵です。守りを固めようと信州に居残った滋野一族から新たに人質をとることにしました。

信州に残っていた<祢津 宮内大輔 元直>の実子を人質に取ろうとしたのですが、いろいろあって元直の弟の僧(祢津村にあった長命寺のお坊さん)が人質として村上家へ行きました。

その後、信州に武田の軍勢がやってきて幸隆公が上田砥石山の城を攻め取りました。<武田 晴信>の喜びもひとしおでなく、その機会に祢津家も武田晴信に属しました。

祢津家が武田へ下ったのを聞いた<村上 義清>は無念に思い、人質の僧を千曲川のほとりに生きながらに逆さ磔にしました。そのほかにも、村上から心変わりした人々の人質は惨殺され、さらし首にされました。

磔にされた祢津家の僧は長命寺の住寺検使に語りました。
「私は覚直にだまされて、祢津家の実子である元直の命の代わりに敵方へ渡されたのだ。
この3,4年は心いきを燃やし、一度は寺へ帰ろうと思っていたのだが・・・。浅ましいことよ。村上義清公には怨みはない。この上は祢津7代に祟りを成そう。」
そう言って水晶の数珠をさらさらと押しもみながら真言秘密を念じ、数珠にて胸を投げ打ちました。
なんと恐ろしい怨念でしょう。胸を打つたびに水晶は微塵に砕け、雷のようになって祢津のほうへと飛んでいきました。17日間呪い続け、怨念がついに元直の嫡子の目を潰したのでした。

それ以降、祢津家の子孫への祟りは続きました。祢津家の人々は他の人には見ることの出来ない僧の姿を目にしては苦しみ、薬鍋の中に入れてある薬袋を取り出すのでした。
祢津家の人々は恐ろしく思い、警備の武士をたくさん配置しました。
薬鍋の蓋を弦に結びつけ守り、鍋の蓋を開けた所、薬は無くなっていました。
その後3代もの間、祟りが続きましたが氏神と祟り祠を建てて祭った所、後代にはたいした祟りもなくなりました。今ではその祠を「若宮」と敬っているそうです。

 

 

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