鎌原忠節を以って信玄、吾妻郡を手に入れる事

武田家は年号が天文になってから信州に兵を出しました。信玄公は16歳の時に信州佐久郡海ノ口城主である<平賀 玄心(源心)>法師を討ち取りました。平賀の城を手に入れたことにより、上州攻略の足がかりができました。

中でも年号が永禄に変わってから(1558.2.28~1570.4.23)信玄公は度々上州に兵を出しました。

さて、上州と信州の国境にあたる浅間山の麓<三原ノ庄>に<鎌原(かんばら) 宮内少輔 幸重>という土豪が居りました。

鎌原(かんばら)家は文明(1469.4.28-1487.7.20 応仁の後)の頃から関東管領家に属していました。
関東管領家の威信は天文15年の北条家との戦(川越夜戦)で負けてから地に落ちました。そのため、上州のあちこちの城主が兵を起こし自分の領地を増やしていく戦国の様相が強くなりました。吾妻では岩櫃城の城主、<斉藤 越前守 藤原 憲広>(斉藤 憲広 法名は<一岩斎>)が近辺の土豪の領地を奪い、勢い盛んでありました。 そこで、鎌原氏は斉藤家に属しました。

<鎌原(かんばら) 宮内少輔 幸重>は考えました。
『つらつらと世の中の成り行きを見ると信玄公はこれから関東へ権勢を振るうであろう。なんとか武田の幕下に属することはできないものか。幸いなことに、<滋野一族>の同族である<真田 幸隆>が本領に帰り小県郡に住んでいる。<真田 幸隆>に頼んで武田家の傘下に入れないものか。』
<鎌原 幸重>は嫡男の<鎌原 筑前守 重澄>と相談し、<真田 幸隆>へ信玄公へのとりなしを頼みました。

鎌原 幸重の申し出に真田 幸隆も少なからず喜びました。
真田 幸隆は言いました。
<小諸の城主 『甘利 左衛門尉』 こそは信玄公の無二の家臣であれば、『甘利 左衛門尉』に『鎌原家』を披露していただきましょう。』
と、いうことで信玄公が信州へ出馬するのを待ちました。

永禄3年(1560年)の春、信州の平原において『鎌原 筑前守 重澄』父子は信玄と面会しました。父子がお礼を申し上げると信玄公は喜び浅からず、
<どうにか工夫して策を廻し、斉藤(岩櫃城主)を討ち取ってはくれないか。>
とおっしゃいました。そこで『鎌原』は朝から晩までその謀を考えました。

翌年(永禄四年)11月、信玄公は西城州へ出張した際に鎌原へ書簡を送りました。

『調略であるから実行する時は良いようにしてくだされば本望です。この策はやがてくるあなたの出番に任せましょう。 先日とうとうに高田の町が降参しました。今日は馬を休め明日『国嶺』に到着したいものです。
近いうちに人数を分け、鎌原へ遣わしましょう。いよいよ(策が)調って参りましたが油断なく工夫して策に心をそそいでください。
   恐々謹言
    11月19日   信玄(判)      』

<鎌原>が信玄公からの御書簡を謹んで拝見してから、斉藤家への不忠が目立つようになりました。岩櫃城主<斉藤 憲広 入道>も<鎌原>の態度を疑わしく思うようになりました。

<鎌原>の一族の住む三原庄の内に<羽尾 道雲入道(羽尾 治部 幸正)>の一族も住んでいました。羽尾家と鎌原家はもともと同じ海野家の一族でありました。しかし、両家は近年いさかいごとが絶えませんでした。

そこで、岩櫃城主<斉藤 憲広>は羽尾家を使って鎌原家を討とうと考えました。評定を開いた結果、<塩野谷 将監入道>と<羽尾 道雲入道>が鎌原の館へ押し出で合戦となりました。

鎌原の館は屈強の要害にあり、地元の豪族である<浦野 下野守>・<湯元 善太夫>・<横谷 左近>達が味方をして塩野谷・羽尾連合軍を防ぎました。これにはかなわないと<斉藤 憲広>は<大戸 真楽斎>に頼んで<鎌原>と和睦をしました。

しかし、<斉藤 憲広>は<鎌原>に心を許すことをしませんでした。しかし、鎌原は斉藤を尊敬し信頼を寄せているように見えました。

鎌原は考えました。
<何とかして今回の事件を利用して計略を進めなければならない>

さて、斉藤の家臣に岩下地方の地頭・富沢家の惣領<富沢 但馬守 行連>という人がいました。彼は<横谷 左近 太夫>の姉婿でした。鎌原は彼を<斉藤 憲広>の甥である<斉藤 弥三郎>の友人にしました。

鎌原は、自分の親戚と岩櫃城主<斉藤 憲広>の親戚を友人にすることによって<斉藤 憲広>に信用させ、油断させた所で岩櫃城を攻め取ろうと画策しました。

案の定作戦はうまくいきました。甥の<斉藤 弥三郎>から話を聞いた<斉藤 憲広>の心は打ち解け、鎌原を信用するようになりました。

鎌原はこのことを早々に甲府へ連絡しようと思い、家臣の<黒岩 伊賀>を密かに甲府へ送り込みました。

信玄公はこの策に感心し、鎌原へ返事の書簡を送りました。

『文書を読みました。知らせてくださった吾妻の様子はどこにも不届きな所がなく、良く分かりました。とりわけ内密な貴方の作戦を伺えました。近いうちに甲府へ参っていただきたいものです。 詳しいことは<甘利 左衛門尉>に連絡させます。 恐々謹言』

<黒岩 伊賀>は信玄公からの返事を受け取ると忍びやかに鎌原へ帰りましたので、<鎌原 宮内少輔 幸重>はその仕事振りに喜んで、<黒岩 伊賀>の領地である今井の郷(現在の吾妻郡嬬恋村 今井)の池川における殺生の権利を全て与えました。

その後、嫡男である<鎌原 筑前守 重澄>を甲府へ参陣させましたので、信玄公は大変喜んで様々な褒美を与え<鎌原 筑前守 重澄>に斉藤家のことを詳しく尋ねました。

信玄公はさらに、
『斉藤家へ討手を差し向けよう。』
とおっしゃって<真田 幸隆>公と<甘利 左衛門尉>を大将に任命しました。

旗本検使には<曾根 七郎兵衛>を任命しました。

その他、信州先方方より
・芦田 下総守
・室賀 兵部太夫入道
・相木 市兵衛尉
・矢沢 右馬介 (幸隆の弟)
・祢津 宮内太夫 元直
・浦野 左馬充

など、都合のつく三千騎余りをその年の八月に吾妻へと送り込みました。

武田軍が大戸口(吾妻郡吾妻町大戸~原町までの道筋)と三原口(嬬恋村~長野原町への道筋)の両方から攻め寄せてきたため、斉藤氏は
『これはかなわない。』
と思い、善導寺の住職を通じて降参の意志を伝えました。

そこで武田軍は人質を受け取り、全員引き上げました。

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