海野の一族の末葉に、<羽尾 治部少輔 影幸>という者がおりました。
<海野 能登守 輝幸>は名前を<中比上原 能登守>と名乗り、武術を教える先生を務めていましたので、岩櫃城主 <斉藤 憲広>もとりわけ懇切に付き合い情けを掛けていました。 ある時、<羽尾 治部入道 道雲>が岩櫃城へ出仕すると<斉藤 越前守 憲広>が言いました。 『さる秋、武田信玄が討手を差し向けてきたので世の習いに従って『降参』と申したが、このことは鎌原の裏切りのために起きたのである。鎌原に対する憤りは止むことがない。羽尾入道には鎌原を討伐する大儀名分があるらしいが。』
それを聞いた羽尾入道は
そして永禄三年十月上旬に、羽尾入道は兵を率いて鎌原の館を襲いました。
等、600余騎を引き連れて鎌原の砦へと押し寄せました。 鎌原も以前から戦の用意をしておいたので、嫡子の<鎌原 筑前守 澄重>を赤羽の台(現在の嬬恋村三原)へ出しました。 また、<西窪 佐渡守 >を大将にした家臣の今井・樋口の一軍を鷹川の古城山(現在の嬬恋村袋倉・鷹川砦)に配置しました。 <鎌原 宮内少輔 幸重>は自分の屋敷に残っておりました。
鎌原がこのように備えている所へ<羽尾 治部入道 道運>と<海野 長門守 輝幸>が一手になって<鎌原 筑前紙 澄重>の備えている赤羽の供養塚のあたりへと迫りました。 鎌原軍と羽尾軍は互いに火花を散らして戦いました。やがて、戦場は仏坂・西川のあたりへと移り、両軍は押し返し押し戻し、散々に戦いました。 しかし仏坂・西川のあたりは難所であり、大軍を動かすには不都合でした。
そのような状態の所へ<大戸 真楽斎>が兵を率いて羽尾軍の加勢にやってくるという情報が入りました。
これを聞いた鎌原は
そこで常林寺(長野原町応桑に現在もあり)の住職を使者として羽尾軍に降参の意を伝えたところ、双方あれこれ言うことなく和談できたのでありました。
このたびの戦いのことが信玄公へ報告なされますと、信玄公はおっしゃいました。 『斉藤と鎌原の不仲によって度々兵乱が起きている。勿論小勢力同士の小競り合いではあるが、小事は大事の元である。両家の不仲の根本を訊ねてみれば、もともとは羽尾入道との領地争いである。羽尾と鎌原の不仲が原因であるのならば、検使を使って領地をはっきりさせることで解決できるであろう。』
そうして、永禄5年3月に甲府から検使として遣わされた
信州先方である
の3人が羽尾と鎌原の領地境をはっきりとさせました。 このことに斉藤も羽尾も大変感謝いたしましたので検使は甲府へと帰りました。 この検地により、羽尾家が先祖代々治めていた領地である『古森(現在の吾妻郡長野原町古森)』『せきや(現在の吾妻郡長野原町大字与喜屋)』の村が鎌原家の物になりました。
検使により領地を奪われた羽尾入道は
斉藤憲広は
すると、鎌原は
鎌原一族が信州へと退去したことが信玄公に報告されると、信玄公は翌年3月に<甘利 左衛門尉>に書簡を届けさせ、信州における鎌原の領地をあてがってくださいました。
(信玄公からの書簡 直訳)
(意訳)
こうして吾妻にあった鎌原の館(現在の吾妻郡嬬恋村鎌原)には羽尾入道が手に入れました。
<羽尾入道>は風流を好む人で、常々『茜染』の小袖を着て浅間山の麓にあるモロシ野で猟をして遊んだり加沢の湯(現在の旧鹿沢温泉)などへ入湯しに行ったりと楽しく暮らしました。
<鎌原>は信州の小県郡に領地を頂くことができて安心しておりました。しかし、
そこで、故郷の農民達へ褒美を与えて、羽尾入道の動きを逐一報告させました。 永禄5年6月のことです。羽尾入道が万座山温泉へ湯治にむかったという報告が入りました。
『これは幸い。』
旧領へ着いてみれば、羽尾入道は留守でした。羽尾入道の嫡子<源太郎>も岩櫃城へ出仕しておりましたので鎌原城には留守を預かる者が五、六十人しかいませんでした。
留守を預かる者共は、
そのため、鎌原は一兵も損なうことなく元の城へと帰ることが出来ました。
城の中には羽尾入道が蓄えた兵糧や兵具がたくさんありました。
万座山温泉で湯治をしていた羽尾入道は報告を聞いてただ呆然としてしまいました。
羽尾入道が信州高井郷へ落ち延びたと聞いた<斉藤入道>は 『甲州から加勢が来る前に鎌原を討ち取らなければならない。が、こちらは少勢であるから難しいであろう。よし、甲州に勝るとも劣らぬ大勢力の謙信公に付き従うことにしよう。』
と考え白井城の<長尾 左金吾入道(長尾 景信)>へ
を使いに出しました。
三人から事の次第を聞いた<一井斎(長尾 左金吾入道)>は
<中山安芸守>は越後へ家臣の<平方 丹波>を使いとして贈りました。
謙信公からの御書簡を受け取った斉藤入道は、早速謙信公の下へ出仕しようと思いましたが、兵乱の真っ最中でありましたので自分自身が出かけることを断念しました。
使いの者も褒美として、白布20反を頂きました。
こうして<羽尾入道>は数ヶ月の間、信州高井野に居ましたが、何とかして故郷へ帰りたいと計略を廻らせました。 鎌原家の老臣に<樋口>という者がいました。彼は羽尾家にとっても親類でありました。そこで<羽尾入道>は<樋口>と密かに連絡をつけました。
<羽尾入道>は
岩櫃城の<斉藤 越前守 憲広>も<海野 長門守>を使者として<樋口>へ送り<羽尾入道>の話を保証しましたので、<樋口>は己の欲心に負けて鎌原家への義理を忘れてしまいました。 <樋口>は羽尾家に味方することに決めて、高井野の<羽尾入道>へと返事を送りました。 『万座山に大雪が積もってからでは兵を出せません。9月中旬に出馬してください。
その時に、寺場へ陣をはり、先勢を門貝から下りに向かわせれば<西窪氏>が出てきて防いでしまうでしょう。
鎌原の中城・外城の両所には鎌原の嫡子<筑前守 幸澄>が守っていてなかなか近寄ることができません。 しかし、大前まで出兵すれば<鎌原 宮内少輔 幸重>本人が出てくるでしょう。その時に私も<鎌原 宮内少輔 幸重>に供をします。 <鎌原 宮内少輔 幸重>は常に黒成馬に乗って出馬します。私は葦毛の馬に乗って出ましょう。黒成馬を目掛けて鉄砲で撃ってください。』
『万座に雪が降る前に軍勢を率いて干俣から大前へ出てきてください。そうすれば鎌原自身が出兵するでしょう。鎌原はいつも黒馬に乗っていますから、それを目印に鉄砲で撃ってください。
<羽尾入道>は高井野から加勢してもらい500人程の兵を引き、打ち合わせのとおり9月上旬に万座山を越え、干俣を通り米無山へ陣を張りました。 <羽尾入道>の動きを見て、鎌原家の家臣<樋口>が大将となり鉄砲の名人10を引きつれ、その前後を兵200人余りに囲ませて大前表へ向かいました。
このとき<鎌原 宮内少輔 幸重>の様子は
<鎌原>に運が向くという兆しでしょうか。
館を出発して鳥居川(吾妻川の上流)を渡った所、<鎌原>の黒馬が前足を折って伏せてしまいました。
<樋口>もさすがに進軍中とあれば主の命を断ることなどできません。力なく葦毛の馬から下りて<鎌原>の黒馬に乗り替えました。 羽尾の兵は大前の上原に控えてわめいていました。
樋口は羽尾との作戦を思い返し、鉄砲の音がするたびに
<羽尾入道>は陣から<鎌原>の軍の様子を伺っていました。 黒馬が<鎌原>の軍から遅れた様子を見ると考えました。 『<樋口>はこちらへ内通した者であるから軍の後ろに控えて前へと進んでこないであろう。』 そこで高井野に住む猟師の親分に頼んで、鹿の下腹を打ち抜く名人を貸してもらいました。
猟師<は羽尾入道>から
猟師が放った弾はみごとに黒馬に乗った<樋口>の胸板を打ち抜き、更に遥か後ろを進軍していた鎌原の郎党の一人の頭を打ち抜きました。
黒馬に乗った武士が撃ち抜かれるを見てすぐに<羽尾入道>は 『敵の大将は討ち取ったり。 敵軍に残る郎党<樋口>は我等の味方である。面倒な事は何もないぞ、者共。』
と言って、弓鉄砲を袋にしまうように下知しました。
<羽尾入道>の軍が宴会で盛り上がっている所へ、無傷であった<鎌原>が兵を率いて一度にどっと押し寄せました。 すっかり油断していた羽尾の軍が混乱している所へ、鎌原へ味方しようとして草津の土豪<湯元 善太夫>と六合村の地侍<浦野 義見斎>が石津の辺りからやってきました。
このとき、羽尾入道の軍には<湯元 善太夫>の嫡子<湯元 三郎右衛門>が従属していました。
<羽尾入道>は何とか逃げ出しました。ただ一騎になって川沿いに駆け平河戸(岩櫃城に含まれていた郷)に落ち延びました。 <羽尾入道>に味方した高井野の兵はほうほうの体で見知らぬ山地を迷い歩き、七日から十日かかって故郷へと逃げ帰りました。
この争いの詳細は甲府へと報告されました。
<羽尾入道>が逃げ込んだ岩櫃城の斉藤家は上杉謙信に従属しているので、少勢では羽尾入道を討ち取ることができません。援軍として
兵糧は小県から補給すべし、となって<真田 幸隆>公がまかなうことになりました。
『<鎌原 宮内少輔>への米 一ヶ月につき50俵分を支障が出ないように考えておくように 永禄六年 五月三日 信玄 』
このように評定が行われまして、最前線では
さてこのとき、<横谷 左近>は<斉藤 越前守>に味方しておりました。 |
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