長野原合戦の事

 

永禄6年(15639月下旬のことでした。 <真田 幸隆>公の弟である<常田 新六郎>を大将として、<湯元 善太夫>と<鞠子 藤八郎>が長野原の城に入りました。

加勢として
・<芦田 下総守>の配下である<依田 彦太夫>
・<室賀 兵部太輔>の配下である<小泉 左衛門>
が交代で勤務しました。

その頃、<斉藤 越前守>は白井(子持村白井城主 長尾氏のこと)に加勢を要請し長野原城を攻めることにしました。
大将を
・<斉藤 弥三郎>
・<羽尾入道>
・<海野 能登守>
として、以下の侍が集められました。

・<植栗 安房守>
・<荒牧 浦野 中務>
・<斉藤 宮内右衛門>
・<富沢 豊前>
・<蟻川 源次郎>
・<塩野谷 将監 入道>
・<割田 掃部助>
・<富沢 勘十郎>
・<横谷 左近>
・<佐藤 豊後>
・<割田 新兵衛>
・<唐沢 杢之助>
・<唐沢 右馬介>

白井からの加勢として、
・<白井 八郎>
・<神庭 三河入道>
・<牧 弥二?六郎>

相隋侍として
・<野村 靱負>
・<飯塚 大学之助>
・<村上 杢之助>
・<大島 式部>
・<石田 勘兵衛>

などが集まり、全部で八百騎余りとなりました。

<斉藤弥三郎>と<塩野谷将監>は搦め手として白井からの加勢200余騎を加えた総勢300騎程を引きつれ、暮坂峠を越え小雨川を渡り湯窪の辺りに押し寄せました。

追手(敵の正面から攻める部隊)は<羽尾入道>・<浦野中務>・<植栗安房守>で総勢500余騎を引きつれ大城山へ登り、長野原城を見下ろしながら合図のほら貝を吹き鳴らしどっと鬨の声をあげました。

長野原合戦・丸岩砦からの眺め(赤線はおおよその登山道と国道です)
画像作成ソフト カシミール3D(ホームページアドレス  http://www.kashmir3d.com/
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第91号)」

追手の部隊は山の上から長野原城へ向けて鉄砲を撃ちかけました。
このとき、長野原城にはわずかな人数しかいませんでした。
何故なら農繁期で兵のほとんどが家に戻り農業をこなしていたからです。

<常田新六郎>は須川橋と琴橋を引き上げさせて斉藤家の軍を防ぎました。
それを見た斉藤家の追手部隊は、大城山の材木を伐採し須川を一気に埋めて道を作りました。

追手部隊が大声を上げて川を渡ってくるのを見た<常田新六郎>はこらえかね、自ら諏訪明神の前まで出て追手部隊を防ごうとしました。

<常田新六郎>は<羽尾入道>と戦い、ついに討たれてしまいました。

長野原城は屈強の要害と言われていましたが、街道の難所にあったため鎌原からの援軍も間に合いませんでした。長野原城で生き残った武将達は、大将が討ち取られた上残った兵も少なかったため、夜中に長野原城を脱出し、鎌原城へと向かいました。

<羽尾入道>は大喜びをしながら長野原城へ入り、本領を取り戻しました。

この話は甲府へ報告されましたが其の頃武田家は越中と駿河へ出陣しており鎌原家へ援軍を送ることはできませんでした。 そのため鎌原家の武将達は空しく日々を送ったのでした。

 

 

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