・其の一 斉藤家への進軍が決まる
永禄6年(1563)8月下旬のことです。
<斉藤 越前入道>は一族を集めて評定を開きました。
「以前より<羽尾 治部入道>と<鎌原>は争っており、<鎌原>は甲州の武田家へ保護を求めそちらへ忠節を誓ってしまった。
最近は<大戸>・<浦野>の両家にも武田へとなびく兆しがみられる。
そこで我が斉藤家は<沼田 万鬼斎>・<沼田 三郎 憲泰>と和睦して加勢を頼み、<鎌原>を退治しようと思うがどうか。」
<斉藤 越前入道>からの申し出を<沼田 三郎 憲泰>は受けて兵を出すことにしました。
この情報を得た<鎌原 宮内少輔>は<真田 一徳斎入道 幸隆>を通して甲府へと報告しました。
すると、甲府より真田へ
『速やかに斉藤家へ誅罰を加えよ。』
と下知が下りました。
そのために、甲府から検使として
・<武藤 喜兵衛尉 昌幸>(真田幸隆の3男)
・<三枝松 土佐守>
の両名が小県郡に着陣しました。
大将は<真田 一徳斎 幸隆>とし、
・<矢沢 右馬介 頼綱>(幸隆の弟)
・<常田 源左衛門尉 信綱>(幸隆の弟<常田 新六郎 俊綱>の嫡男)
・<祢津 長右衛門尉 利直>(<祢津 宮内太輔 元直>の嫡男)
それから、海野家の係累である
・<小草野 孫左衛門>
・<相木 市兵衛尉>
・<芦田 右衛門佐>
・<鎌原 筑後守 重澄>
(<鎌原 宮内少輔 幸重>の嫡男)
・湯本(草津の土豪)
・西窪(嬬恋村西窪の土豪)
・横谷(東吾妻町松谷字横谷の土豪 おそらく<横谷 左近太夫 幸重>一族)
などの武将を随行していくことになりました。
全部で三千を越える兵力を二手にわけ、一つを横谷雁ヶ沢口へ、もう一つを大戸口へと差し向けました。
大戸口へは祢津・芦田・矢沢の兵を差し向けた所、大戸を治めていた<大戸 真楽斎>は権田の地頭であり弟の<大戸 但馬守>を人質に出して降参しました。
・其の二 斉藤家への援軍が集まる
そのような戦況の最中に、<沼田 三郎 憲泰>は大将に弟の<沼田 弥七郎 朝泰>を立てて斉藤家への援軍を出発させました。
援軍には
・<山名 信濃守>
・<発地 図書介>
・<下沼田 道虎入道>
・<鈴木 右近>(名胡桃の土豪)
その他
・<師 大助>
・<山名 弥惣>
・<西山 市之丞>
・<塩原 源五左衛門>(一説に源太左衛門とあり)
・<原沢 惣兵衛>
・<増田 隼人>
・<根岸 左忠>
・小野
・広田
・深津
・真下
・小川
などの一族も加わり総勢500騎程の兵が、永禄6年(1563)9月上旬に沼田を発って岩櫃城へ到着しました。
また、白井城主<長尾 左衛門尉 憲景>も斉藤家への援軍を出そうと家老である
・<矢野 山城守>
・<牧 弥三郎>
におよそ200騎の兵を与え岩櫃城へ向かわせました。
援軍の到着に喜んだ<斉藤 越前入道>は甥の<斉藤 弥三郎 則実>に譜代の家臣であり親戚である
・<富沢 但馬>
・<富沢 勘十郎>
・<富沢 伊賀>
・<富沢 豊前>
・<富沢 又三郎>
・<蜂須賀 伊賀>
の六人をつけました。
富沢家は斉藤家の分家です
また、斉藤家の一門に属している
・<中山 斉藤安芸守>(高山村の土豪)
・<尻高 左馬之介>(高山村の土豪)
・<荒牧 斉藤宮内右衛門>
その他に
・<塩谷 源次郎>(中之条の土豪)
・<蟻川 入道>(中之条町蟻川の土豪)
・<佐藤 豊後>(中之条町折田の土豪 後の佐藤軍兵衛)
なども加えて総勢300騎程の軍となりました。
これに沼田からの加勢(約800騎)を加えて横谷雁ヶ沢口へ差し向けました。
次に<斉藤 越前入道>は大戸口へ兵を差し向けました。
斉藤家の親族である
・<斉藤 四郎太夫 憲春>(<斉藤越前入道>の次男)
・<富沢 但馬>
・<唐沢 杢之助>(唐沢玄蕃の父親)
一門である<植栗 安房守 元信>
外様の家臣である
・<中沢 越後>
・<桑原 平左衛門尉>
・<桑原 大蔵>
・<二ノ宮 勘解由>
・<割田 新兵衛尉>
・<割田 隼人>
・<鹿野 右衛門佐>
・<茂木 三郎左衛門>
・<高山 左近>
・<富沢 主計>
・<井上 金太夫>
・<神保 佐左衛門>
・<川合 善十郎>
・<高橋 三郎四郎>
・<伊与 久大五郎>
・荒木
・小林
・関
・田村 (嶽山合戦に参戦する<田村 新右衛門尉>の一族か?)
・<一場 左京進>
など、合わせて800人程の兵と白井からの加勢を合わせて一千を越える兵となりました。
その他にも、戦が起きると知った
・一宮神社(貫前神社の分霊を祭る)の神主<片山>
・岩鼓(いわつつみ)大明神の神主<高山>
・和利宮(吾妻神社とも呼ばれる。吾妻七社の一つ)の神主<小板橋>
・首宮(江戸時代の別当寺「専竜院」)
・鳥取(とっとう)神社(吾妻七社の一つ)
などの神主等までもが
「このたびの大事にお供致しましょう。」
と言いそれぞれ一族の者共を集めて100人を越える集団を組み、9月15日朝八時半に岩櫃城を発ち仙人ヶ岩の南にある手古丸の城へと集まりました。
・其の三 大戸の戦闘
神主達は<大戸真楽斎>の家来達と力を合わせて辺りへ鉄砲を打ちかけましたので、武田の軍勢は簡単に手古丸の城へ近づけず、躊躇しているように見えました。
ところが、祢津家・矢沢家・芦田家・常田家の4家は兵は率いて榛名山の居鞍ヶ嶽を越えて、山の上からまっすぐに下りて攻めてきたのです。
斉藤入道は予想もしなかった山上からの攻撃に「叶わない」と思い策を立てました。
茶臼の橋、郷原の12神の森、志度、生原、梅ヶ窪へと軍勢を退却させました。
岩櫃城へと向かってくる武田の軍勢にとってはどこもかしこも難所でありましたので、そこかしこの山や谷に潜んで、迫ってくる敵を待ち構えたのでした。
・其の四 真田信綱・昌幸兄弟の活躍
幸隆公と御子息達は長野原城で評定を開きました。
「岩櫃城は信州への入り口である。<斉藤 憲広 入道>はあちこちの難所をうまく利用して城を守っている。大戸へは息子の四郎太夫を差し向けたようだ。
こちらから直接に岩櫃城の大手門へ向かうことは意味がない。」
こう決まりまして、真田家の御嫡子<真田 信綱>と<三枝松 土佐守>は500騎余りを引き連れて火打花から高間山を越えて涌水を通り松尾の奥、南光の谷へと向かいました。
三男の昌幸公は赤岩通り(県道55号線沿いの古道)を通り、暮坂峠を越えて折田の仙蔵の城を攻めました。
仙蔵の城を預かっていた城代<佐藤 将監 入道>と<冨沢 加賀>は降参して人質を昌幸公へと渡しました。
また、<唐沢 杢之助>の女房が息子<お猿>を伴って、八尺原までやってきて御礼を申し上げました。
この<お猿>は後に<唐沢 玄蕃>と名乗ります。
昌幸公は事の経緯を全て幸隆公へ報告し、御自身は有笠山へ登り、山へ陣取り斉藤家の軍の様子を遠くから眺めました。
嶽山の城には<斉藤 憲広 一岩斎>の末子である<斉藤 城虎丸>が篭城していました。
<斉藤 城虎丸>は16歳でしたので、斉藤家家臣の<池田 佐渡守 重安>が側に付き城の中から一歩も出ずに鳴りを潜めていました。
昌幸公から報告を受けた幸隆公は林の郷 諏訪の森に本陣を据えました。
そして、先陣として大戸に布陣する
・<鎌原 宮内少輔>父子
・<相木 市兵衛尉>
・<小草野 孫左衛門>
・<湯元 善太夫>
・<横谷 左近入道>
などの諸将の元へ走り向かい、これまでの情報を交換すると、諸将らは
「嶽山の城は吾妻一の堅固な山城にございます。その上、城自体もこの世に二つと無い城郭でございますれば力攻めをするのは難しいでしょう。智略でもって討つのが良いと思われます。」
と、意見を述べました。
・其の五 鎌原の調略
彼等の意見を聞いた真田親子は一つ細工をしてみることにしました。
諏訪神社の別当寺の<大学坊>と雲林寺の僧侶を善導寺へと使いにやりました。
真田家からの使いとしてやってきた僧侶達から和議の話を持ち掛けられた善導寺の住職は早速<斉藤 憲弘>へと話を取り次ぎました。
<斉藤 憲弘>は
「この度の戦は大戸・浦野・鎌原の三家を退治しようとしたまでの事。信玄公に恨みは無い。」
と和議を結ぶ事を承知しました。
鎌原家・浦野家・大戸家とも和議を結ぶ事として、
「武田の軍勢は仙蔵の城を斉藤家へと返し、鎌原家・浦野家・大戸家から斉藤家へ人質を渡し、互いに陣を引く」
ということになりました。
<鎌原>は岩櫃まで出向き、<斉藤 越前守 憲弘 入道>と対面を遂げ和議を結びました。
一礼して退出するときに、そっと<斉藤 弥三郎>にも一礼をしました。
その夜、<鎌原>は<斉藤 弥三郎>の館で一泊し<斉藤 弥三郎>のご機嫌を取りました。
<鎌原>は酒のもてなしを受けながら密かに<斉藤 弥三郎>へ語りかけました。
「貴方は斉藤家の事を大事に思っている、その忠誠は本当に深く長く続いてきたというのに、最近は『告げ口ばかりする』と皆から距離を置かれているそうですね。」
<鎌原>が身の不遇への同情を懇々と語りかけるので、ついに<斉藤 弥三郎>は心を開いたように見えました。
<鎌原>はここでもう一押しと語りました。
「信玄公は多年に渡り<斉藤 越前守 憲弘 入道>にお恨みがありますので、(今回は和議を結びましたけれども)大軍を用いて誅罰を与える事をやめることは出来ませぬ。ですから、次の戦の時に貴方が武田側へ寝返ってくださいますれば、信玄公は貴方に必ず吾妻郡を安堵してくださいます。寝返ってくださいますのなら、<真田>から信玄公へと貴方の御忠信をお伝えいたしましょう。」
そう言いながら、懐から熊野牛王の起請文書を取り出し<斉藤 弥三郎>へと見せました。
<斉藤 弥三郎>はあまりの見返りの大きさに目が眩み、主従一族の縁を忘れ、たちまち心変わりをして起請文をしたため<鎌原>の味方をし、斉藤家の親族や家老達を調略することを手伝いました。
そして、大半の者が武田家へと寝返ったのでした。
・其の六 海野兄弟と斉藤家の確執
<斉藤弥三郎>の協力をもってしても、<海野 長門守 幸光>・<海野 能登守>兄弟が寝返るかどうかははっきりしませんでした。
海野兄弟は<斉藤 越前守 入道>から長い事恩を受けていたので、簡単に寝返るとは考えられなかったのです。
そこで、<真田 幸隆>公から同族の<海野 左馬介>が使者として密かに送られました。
海野兄弟は
「私達と貴方は元々同族ですから。」
と寝返りを承知しました。
実は、昨年の12月に<海野 能登守>と<斉藤 越前守>の間に亀裂が入っていたのです。
12月31日の大晦日の事でした。兼ねてから<海野 能登守>が深く慈愛を与えていた年若い女が身罷りました。
女の遺体を善導寺へと送ろうとしたのですが、<斉藤 越前守>は
「大手門にはもう門松が飾ってある。今日は歳末の祝いをせねばならないのだから、松の間に不浄のものを通すわけにはいかない。」
と大手門から遺体を運び出すことを許しませんでした。
その話を聞いた<海野 能登守>は(もともと気が強い性格であったので)たちまちに腹を立て、自ら大手門まで出向き、門松を破壊して女の遺体を通したのでありました。
門番のものはこの事を<斉藤 越前 入道>へと訴えたのですが、相手が<海野 能登守>であったため表面的にはお咎め無しとなりました。
が、<斉藤 越前 入道>の心の奥底には<海野 能登守>への恨みがしんしんと溜まっていきました。
もちろん、<海野 能登守>もこの度の事をひどく不快に思っていました。
正月2日になりますと、<海野 能登守>は岩櫃城へ出仕して年始の挨拶を述べました。
正しい礼儀で挨拶をされた<斉藤 越前守>は盃を持ち出し<海野 能登守>へ酒を勧めました。
<海野 能登守>は盃を受け取らずに言いました。
「そうそう、<斉藤入道>殿。某は先日とても珍しい刀を手に入れたのです。是非ご覧くださいませ。」
と、その場でまるで氷のような刃を抜き放ち<斉藤 越前守 入道>の眼前へと突きつけました。
<斉藤 越前守 入道>の顔色は一瞬にして真っ青になりましたが、そこは斉藤家の当主らしく何事もなかったかのように刀を眺め、その後は普通に<海野 能登守>をもてなしてから座を退いて行きました。
この事件があってから、両者の心は離れて行ったのでした。
斉藤家に愛想をつかせた海野兄弟は隙を見て岩櫃城を乗っ取り、武田へと寝返ろうと考えていて時を待っていた所へこの度の戦が起こり、絶好の機会を得たと大喜びで<矢沢 綱隆><矢沢 苗左馬充>に内通して<真田 幸隆>公へと忠誠を誓ったのでした。
海野兄弟は
「幸隆公は時を移さず、すぐに出馬をして頂きたい。我等兄弟と<斉藤 弥三郎>がそちらへ寝返った証として連判の起請文をお渡し致しましょう。」
と言い、9月15日に鳥図の宮へ参詣と称して皆を集め語らい合いました。
首の宮の別当<専蔵坊>、鳥図の神主<大隈太夫>を説き伏せ
・<海野 長門守>
・<海野 能登守>
・<斉藤 弥三郎>
・<植栗 安房守>
・<冨沢 但馬>父子
・<唐沢 杢之助>
・<冨沢 加賀守>父子
・<蜂須賀 伊賀>
・<浦野 中務 太輔>
以上9名連判の起請文を用意し、<矢沢 薩摩守 頼綱>の殿(しんがり)方へ使いを遣り幸隆公のお目に届くように致しました。
・其の七 岩櫃城への進軍
十月中旬に、幸隆公は総勢2500騎を追手・搦め手の二つに分けて、岩櫃城攻めを再開しました。
今度は雁ヶ沢口へは人を回しませんでした。
その代わりに<真田 源太左衛門 信綱><室田 兵部太夫 義平><三枝松 土佐守 重貞>に二千騎を預けて暮坂峠へと廻しました。
これは、沼田勢・白井勢からの斉藤家への加勢を押さえるためでありました。
<矢沢 薩摩守 綱隆>・<真田 喜兵衛尉 昌幸>は500騎程を引き連れて大戸口から岩櫃城へと向かいました。
<大戸 真楽斎>兄弟も兵を200人程引き連れて丸岩の砦へと向かいました。
これらの軍勢を合わせて総勢700騎余りになりました。
その700騎が三島から川を越えて類長峰と大竹に陣を取りました。
<大戸真楽斉>はこの辺りの事情に精通しておりましたので箕輪からの加勢を待って、萩沢の辺りに陣を取りました。
<大戸真楽斉>の弟である<大戸但馬守重勝>は鍛冶屋の<権田政重>が鍛えた矢尻200個を<真田昌幸>・<矢沢薩摩守頼綱>へ捧げて同行を許してもらった事にお礼を言いました。
同じく、鍛冶である<湯浅対馬>も矢尻を10個捧げてお礼を申し上げました。
余談ですがこの<湯浅対馬>は後に武田信玄公から扶持をいただきました。
・其の八 斉藤憲広の籠城
ついに<斎藤越前守憲広>は
「敵襲が来た!」
と聞き及び、一門と家老の人々を集めて評定を開きました。
そこで海野兄弟の心変わりを知り、あわてて海野兄弟の妻子を人質に捕り、甥の<斎藤弥三郎>へと預けました。
また岩櫃城の大手門と番匠坂を
・<斎藤 弥三郎>
・<植栗 河内守>
・<富沢 加賀>
・<唐沢 杢之助>
など、合わせて300騎余りの兵に守らせました。
次に切沢口を
・<富沢 伊予>
・<蜂須賀 伊賀>
・<佐藤 入道>
・<有川 庄左衛門尉>
・<川合 善十郎>
・<塩谷 源三郎>
など、200人余りの兵に守らせました。
次に岩鼓の出城には
嫡子である<斎藤 越前守 太郎 憲宗>を始め
・<尻高 源三郎>
・<神保 大炊介>
・<割田 掃部>
・<有川 入道>
・<佐藤 豊後>
・<一場 茂左衛門>
・<一場 太郎左衛門尉>
・<首藤 宮内 左衛門>
・<桑原 平左衛門>
・<田沢 越後>
・<田中 三郎四郎>
など300人余りが立てこもり敵の襲来を遠見することになりました。
岩櫃城には
・<海野 長門守>
・<海野 但馬守>
・<海野 中務太夫>
・<獅子戸 入道>
・<上白井 主税介>
などが籠り、寄ってくる敵を待ち受けました。
かねてから<斎藤 越前守 憲広>は
「岩櫃城は日本に二つとない名城である。たとえ百万騎の兵がやってきても簡単には近寄ることさえできない。」
と言っていました。
そこで軍議の席において
「今回は籠城をして敵が近寄ってきたら弓や鉄砲であしらうことにしよう。決して木戸を開いて城の外で戦ってはならない。そうすれば敵は退屈して隙が生まれる。そのときに城を出て戦おう。
真田兄弟を打ち取り、復讐するのだ。」
と決めて、後は静かに籠城をしました。
・其の九 忍者 角田新右衛門
さて、大手門の大将に選ばれた<斎藤 弥三郎>は、武田方へ内通しようと機会を窺っていましたが、<斎藤 四郎太夫 憲春>があちらこちらの出口を走りまわり細かく命令を伝えていたのでなかなか内通できなく、むなしく時をすごしていました。
あるとき、<斎藤 越前守 憲広>が<斎藤 弥三郎>を呼び出して命令を下しました。
「敵からの攻撃があるわけでなく、ここしばらくは静まり返っている。ひょっとしたら甲府からの加勢を待っているのかもしれない。敵陣がどのような様子であるのか、忍者を使って様子を探るのだ。」
そこで<角田 新右衛門>という腕の立つ忍者を使うことにしました。
<斎藤 弥三郎>は良い機会が訪れたと喜び、<角田 新右衛門>を内通の使者にしたてました。
この時、<斎藤 越前守 憲広>の命運は尽きたのでした。
<角田 新右衛門>は大竹の陣(現 東吾妻町三島の小字)の陣所へ駆け込み<鎌原 宮内少輔>へ近づき岩櫃城の様子を語り<斎藤 弥三郎>の直筆の書状をさしだしました。
<矢沢 頼綱>公は喜び<角田 新右衛門>の話を<真田 昌幸>公へと伝えました。
<真田 昌幸>公も大いに喜び<角田 新右衛門>を呼び出しておっしゃいました。
「そなたのこの度の忠信は他に比べる事が出来るものが無いほどに素晴らしい。そなたは岩櫃城へ戻り、海野 長門守兄弟と談合し、岩櫃城の曲輪(くるわ)に火を着けよ。
その火を合図に我らの手勢が押し寄せるぞ。」
そして<真田 昌幸>公は<角田 新右衛門>に金子を十両与え
「神妙なり、神妙なり。」
と誉め、さらに
「<斎藤 一岩斎入道 憲弘>を討ち取ったならば一かどの知行を与えよう。」
とまでおっしゃってくださいました。
それを聞いた<角田 新右衛門>の喜びは限りなく、早速岩櫃城内へ立ち返り<斎藤 弥三郎>に<真田 昌幸>とのやり取りを詳しく報告しさらに海野 長門守兄弟とも示し合わせました。
こうして永禄8年10月13日の夜中過ぎに<斎藤 一岩斎入道 憲広>が住居として使っていた岩櫃城主殿に火がかけられました。
主殿の中は女房達を始めとして全員が大混乱に陥りました。そこへ岩櫃城の大手門(正面)・搦め手門(裏門)両方から一度に敵の兵が押し寄せ鬨の声をあげましたので、城に詰めていた斎藤家の家臣達は海野 長門守兄弟と共に斎藤家を裏切り<真田 幸隆>公ひきいる武田家へと寝返ったのでした。
・其の十 斎藤 弥三郎の裏切り
それより少し前に<斎藤 弥三郎>は岩櫃城・天狗丸へ行き、そこで生活していた人質達を連れだし護衛をつけて善導寺と避難させました。
そして自分は岩櫃城の大手門(正門)に向かい木戸を開いて武田家の軍勢を招き入れたのでした。
武田軍の先陣は
・<矢沢>
・<鎌原>
・<湯本>
・<西窪>
・<横谷>
・<小草野 新左衛門尉>
達の兵が一丸となって二の門まで押し寄せたのでした。
まず<鎌原 宮内少輔>が郎党の<黒岩>と共に木戸を乗り越えて城内へ押し入りました。
この時、<斎藤 一岩斎入道 憲広>は
・<山遠 岡与 五左衛門>
・<川合 善十郎>
・<一場 右京>
・<上白井の入道>
・<獅子戸の入道>
・<湯本 左京之介>
・<湯本 金蔵>
・<高橋 一府 入道>
などの郎党達に
「<斎藤 弥三郎>はどこにいる。海野 長門守兄弟が裏切ったぞ。海野 長門守兄弟は郎党共々討ち取ってしまえ。」
と下知を飛ばしていました。
しかし全員に<斎藤 弥三郎>の息がかかっておりましたので<斎藤 一岩斎入道 憲広>の命令を聞く人間は誰もいませんでした。
動こうとしない郎党達に<斎藤 一岩斎入道 憲広>が疑問を抱くよりも早く、誰かが采配を振りかざし、めいめいがうなるような大声をあげて斎藤親子へと襲いかかりました。
<斎藤 一岩斎入道 憲広>の二男 <斎藤 四郎太夫 憲春>が手槍を構えて応戦しましたので、<矢沢 頼綱>は
「取り逃すな。」
と下知を下し、不動の谷の南側で<斎藤 四郎大夫 憲春>を討ち取ったのでした。
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「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第91号)」
・其の十一 斎藤憲宗 血路を開く
目の前で二男を討ち取られた<斎藤 一岩斎入道 憲広>は
「弥三郎め。可愛がってやったのに。」
と言いながら焼け崩れた屋敷に戻り、腹を切ろうとしました。
そこへ長男の<斎藤 太郎 憲宗>が岩櫃城の出丸から戻ってきて切腹を止めました。
「ここで死ぬのはもったいない事です。我々が敵を食い止めますから父上は一足先に越後の国へ落ち延びてください。景虎卿(上杉謙信)にお頼りになり、もう一度御運を拓くのです。」
こう言うと、<斎藤 太郎 憲宗>は大薙刀を水車のように振り回し、岩櫃城の大手門・搦め手門に押し寄せる敵を押しのけたのです。
この時、<斎藤 太郎 憲宗>にお供したのは
・<富沢 藤若>
・<秋間 五郎>
・<斎藤 無里之介>
・<佐藤 半平>
・<鹿野 介五郎>
・<浦野 左門>
・<福田 久次郎>
それから善導寺の番僧である
・<伝浦>
・<林覚>
・<林清>
などでした。
岩櫃城には今朝まで斎藤家に味方する兵が2000を超えて居たというのに、その日の午後二時ごろには僅かに200程まで減っていたのでした。
そうは言うものの、岩櫃城は他に並ぶ物の無い堅固な名城でありますから、たやすく城内へ近寄る事はできません。
ここかしこから侵入を試みますが、山の上から大木や大石を投げかけられなかなか近づく事ができません。
流石の真田勢も斎藤家のこの勢いに辟易して川向うまで引き退きました。
・其の十二 斎藤憲広 岩櫃城から落ちのびる
こうしてその日の夕方まで凌いだ<斎藤 一岩斎入道 憲広>親子は、一ヶ所に集まり
「嶽山城に引き籠っている<城虎丸>と一緒に越後へと落ち延びよう。」
と相談して、生き残った家臣を集めました。
ほどなく集まった100人余りと共に、高野平野の里(現在の東吾妻町原町の小字。古城ともいう。)へ下りて行った所、そこには<真田 兵部丞 昌輝>殿の配下である
・<深井 三弥>
・<田沢 主水>
・<林 新左衛門>
・<小池 太郎 左衛門>
達が落人に備えて配置されていたため、<斎藤 一岩斎入道 憲広>は嶽山城へ向かうのを諦めました。
そこでカツ馬ヶ嶽の麓にある細尾の谷まで行き、古座部から丹下を越えて稲包み山の麓の木根宿を越えて越後の国の山中まで辿り着きました。
・其の十三 山田与惣兵衛の忠義
さて、四万谷の喜美野の尾には<山田 与惣兵衛>という者が住んでいました。
<山田 与惣兵衛>は代々斎藤家に仕え、その御恩を忘れた事がありませんでした。
しかし、病気のために今回の合戦の時には岩櫃城に出仕していませんでした。
<山田 与惣兵衛>は<斎藤 越前守 憲広入道>が四万谷の山中を抜けて越後へ落ち延びたと聞いて
「せめて山道をお見送りしたい。」
と思い遅ればせながら後を追って行きました。
しかし、病身の上に険しい山道をたどるのは容易なことではありませんでした。<斎藤 越前守 憲広入道>が岩櫃城を落ち延びてから三日後に越後国魚沼郡の長尾伊賀守領である嶋ケ原という場所で漸く追いつく事ができたのでした。
その時はちょうどお昼時であったため、<斎藤 越前守 憲広入道>は弁当を広げて休憩をとっていました。
そこへ<山田 与惣兵衛>はようやく追いつく事が出来たのでした。
<山田 与惣兵衛>はその場でお誓い申し上げました。
「いつまでも、幾つになっても御供申し上げます。」
この誓いを聞いて<斎藤 越前守 憲広入道>は涙をハラハラと流しました。
「数代に渡り恩賞を授けた一門の人間や家子郎党なども心変わりしたという時に、そなたなどは外様でありそれほど恩賞も受けなかったであろうに此処までの厚意を示してくれるとは(感動のあまり)言葉もない。時流が変われば再び相まみえる事もあろう。
ところで嶽山城に残してきてしまった<城子丸>はどうなったであろう。これから先に辛いめに逢うであろうあの子の行く末をどうか頼む。」
そう言って<山田 与惣兵衛>に盃を与えたのでした。
<斎藤 越前守 憲広入道>はさらに語りました。
「『斎藤』とは寿永の頃(1182~1183)に源平の両家の闘いで活躍した<斎藤 別当 実盛>の名を朝廷より賜わったのだ。我も元は越前の者であったが此の度は北国へと落ちていく。何を言うかいもないありさまだ。」
そう言って両目に涙を浮かべた後に末行の刀を<山田 与惣兵衛>に形見として与えました。
その後、<斎藤 越前守 憲広入道>は妻有(新潟県中魚沼郡十日町)の庄へと落ちて行きました。
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