吾妻郡守護併岩櫃城代之事
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「斎藤 越前守 (藤原)憲広 (法名 一岩斎入道)」とその嫡子「斎藤 越前 太郎 憲宗」と次男「斎藤 四郎太夫 憲春」を さて、<鎌原 宮内少輔>と<湯本 善太夫>の二人は内応の誘いを受けて寝返った<斎藤 弥三郎>の事を隠密に処理して甲府へは報告しませんでした。 しかし、<真田 信綱>と<室賀 入道>がこの話を甲府へと報告しましたので、信玄公は一枚の紙に御感状を書き記しました。 「斎藤越前入道から離反し武田家へと寝返るという企てについて聴きました。貴方がたの忠節は岩櫃城を乗っ取る局面でまことに比類無き素晴らしい物です。近い内に私自身が岩櫃城へ赴き<斎藤 弥三郎>が武田家に寝返った事は私の命令であったと公表しましょう。安心してください。細かい事などは<室賀 入道>に従って甲府へと報告してください。 永禄6年 壬亥 12月12日 信玄 (在判)
信玄公はこの御感状を<神原 宮内少輔>へと下されました。
年も改まり、永禄7年(甲子)正月となりました。 昨年に岩櫃城を落としてからずっと、斎藤家家臣だった者達の妻子を人質として岩櫃城内に置いておきましたが、またいつどこで戦が始まるか判らない時勢でしたのでこのまま岩櫃城に人質を置いておくのは不安が大きすぎると思った<鎌原 宮内少輔>は息子の<鎌原 筑前守>を甲府へと遣わして武田家へと相談いたしました。 その態度が神妙であると、信玄公が次の書状をくださいました。 「岩下城においてある人質をどうするかで悩んでいると聞きました。<三枝松 土佐守>と談合して務めに励んだのは大変によろしい事です。貴方が申した通り、結局の所、人質達は甲府へと移しなさい。<斎藤 弥三郎>にそのように下知を与えます。 そうは言えども、最前線を守る貴方達の忠信は他に比べる物が無いほどのものです。なお、<甘利 利左衛門>を遣いに出して下知を述べさせましょう。
永禄7年 甲子 正月22日
こうして(信玄公からの信用を回復した)<鎌原 宮内少輔>は年始の挨拶とお礼のために、長男<鎌原 筑後守>を甲府へと遣わし、熊の皮を5枚進上し信玄公へとお礼を申し上げました。 <湯本善太夫>も白根山の硫黄を5箱武田家に献上してお礼を申し上げました。 信玄公は鎌原と湯本に土地を安堵する書状を下されました。 「三原(現在の吾妻郡長野原町三原)において鎌原家の土地としたが斎藤家に押領されていたため信州海野の土地を代わりにあてがっていた件についてお知らせします。此の度斎藤家の所領を没収したので永禄5年に取り決めた通りに『赤川』に沿って南側を200貫文間違いなく知行として認めます。 追伸 『熊川』『赤川』の落合より南の事は、永禄5年に検使を使わして定めた通りのままで行きます。山の事も同様です。
永禄7年甲子 2月17日 信玄(判子)
「(湯本家の)本領である草津谷においては取り決め通りに安堵します。そのほかに羽尾領であった立ち入り(長野原町大津字立石)と長野原などの先約した土地を合わせて170貫文、間違いなく知行として与えます。 追伸 草津の中の土地についても今まで通りに安堵します。
同(前述の鎌原への書状と同日という意味) 信玄(判子)
この後、岩櫃城に人質として留め置かれていた元斎藤家家臣の妻女達は甲府へと届けられました。
また、斎藤家から武田家に寝返った地侍達にも恩賞が与えられました。
<海野 長門守 兄弟>は<真田 一徳斎入道 幸隆>へとお預けになりました。また、海野兄弟には信州佐久郡と小県郡の中から僅かにですが知行が宛がわれました。
なおも<斎藤 城虎丸>は嶽山城へ立て籠もっておりました。 付従うのは ・<池田 佐渡守> ・<池田 甚次郎> ・<蟻川 式部> ・<山田 与惣兵衛> ・<割田 下総> ・<鹿野 大介> ・<植栗 主殿助> などの無にの家臣達でした。その他に中山氏や尻高氏も味方して、皆で越後の<上杉 謙信>公へと忠信を誓っていました。
<真田 一徳斎入道 幸隆>公は
この様子を<上杉 謙信>公が聞き及び<川田 伯耆守>と<栗林 肥前守>を援軍に嶽山城へ送ったという噂を聞いて、<真田 一徳斎入道 幸隆>公は甲府へと御報告なさいました。
この時、<清野 刑部 左衛門尉>へ下された書状が残っています。
そなたも先日に奥信濃から帰陣して間も無いですが、同じ下知を下します。本当に恐れ入りますが大急ぎで上州へと出陣してもらえますか。これもひとえに忠信の為です。 恐々謹言
甲子 3月31日 信玄(判子)
こうして清野氏と曽根氏を合わせて千騎を超える兵が岩櫃城に着陣しました。 嶽山の城へは<栗林 肥前守>と<田村 新右衛門尉>が加勢したので斎藤家の勢いは雲や霞のごとく嶽山を覆い尽くさんばかりでした。
永禄7年3月下旬に成田原、美野原において合戦がありましたが 「<武田 晴信>公が甲府を出発して上州の南牧村の余地峠を越えて箕輪城に着陣した。」 という情報が入ったので斎藤家の軍は嶽山の城へ引き籠って籠城をしました。
大戸氏・浦野氏も箕輪城で<武田 信玄>公に御礼をすませました。
「その方の使者殿と峠でお会いしました。忠節に感じ入りました。
民が農務に励まねばならない時期です。来月の下旬には早々に出張するため、今日平原(信州佐久平)まで帰陣します。私が帰っても吾妻の事は番勢の浦野・祢津・真田の衆に申しつけます。 まず、<常田 新六郎><小草野 孫左衛門><浦野 左馬允>を吾妻に移します。詳しい事は甘利が申し上げます。 恐々謹言
永禄7年 甲子 5月17日 信玄(判子)
この頃、嶽山へ加勢した地侍達と<長尾 一井斎 憲景>とが協力し合い岩櫃城を攻めようと評議を繰り返しました。 その様子を<真田 一徳斎 幸隆>公はすぐに箕輪城へ<白倉 武兵衛>を遣いに出し、武田家から加勢を得ました。
加勢としてやってきたのは
なお、<真田 一徳斎 幸隆>公が味方を得た事を聞いた<上杉 謙信>公は
上杉謙信の動きを知った<真田 信綱>は手勢の500騎を引き連れて出発しました。
<祢津 元直>は500騎余りを伴って岩櫃城に到着しました。
また、<真田 幸隆>公にも吾妻の地侍達が味方にかけつけ、合わせて3000余りの兵が雲霞のように集まって寄り来る敵を待ち受けたのでした。
このような時勢でしたが、何と嶽山城に籠城していた<池田 佐渡守>父子が付き人に変装して武田家側に寝返った<植栗家>を訪ねてきました。
<植栗>は<真田 幸隆>父子に<池田 佐渡守>父子の言い分を伝えました。
<真田 幸隆>父子は
こうして信州からお味方に駆け付けた<清野 刑部 左衛門尉><曽根 七郎兵衛尉>の両将も帰陣なされましたので、この年はどちらの陣も静謐に暮らしたのでした。
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