嶽山合戦 斎藤越前太郎 併 城子丸兄弟 最後之事
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<斎藤 越前太郎 憲宗>は岩櫃城から落ち延び北国の<長尾 伊賀守>を頼り、魚沼郡早川の郷に住んでいましたが、一度故郷に帰りたいと企て、長尾家と栗林家から少々加勢を賜り、諸国の浪人をかき集めて500騎余りをひきつれて吾妻郡へと向かいました。
永禄8年10月下旬に嶽山城に到着し、弟の<城子丸>と一緒になってから白井城の<長尾 左金吾 憲景(一井斎)>にも援軍を要請し、中山家、尻高家、小川家そして<赤松 可游斎(後の小川 可游斎)>からの援軍を得、総勢2000騎余りの軍勢を整え旗を揚げたのでした。
三人は<斉藤 越前守 太郎 憲宗>にだけ聞こえるように細々と口を開きました。 「我等が大将である<真田 一徳斎 幸隆>公からのお言葉をお伝え申し上げます。
<斉藤 越前守 太郎 憲宗>は
講和を終えてから<真田 一徳斎 幸隆>公は<池田 佐渡守 重安>を招いて仰いました。 「斉藤家の家臣や郎党など今まで恩を受けてきた面々が残らず心変わりしたというのに、貴方がた親子は今年に至るまで末子<斉藤 城虎丸>を盛り立てて来ました。これこそ武士の本分、有るべき姿です。 そうは言えど、斉藤家が武田家に反逆したことを<武田 晴信>公はとてもとても深く憤っております。このまま行けば、斉藤家への御誅罰が下されることは間違いないでしょう。 貴方は元来<楠木 正成>の御子孫の一人ではありませんか。世の慣習に従い斉藤家の下に仕えていただけにすぎません。
この言葉を聞いて<池田 佐渡守 重安>は<真田 一徳斎 幸隆>公に味方することを約束しました。 この事は早速甲府へと報告され<池田 佐渡守 重安>へ次のような所領安堵の御證文が下されたのでした。 「そなたが今日に至るまで嶽山城に篭る斉藤家を立てて来た事は比べるものも無い程の忠信であり、心底感じ入りました。 この度真田から当家に忠信を預けていただけると聞き、その神妙な心がけに感動いたしました。そなたが治めていた山田郷150貫は今までどおり安堵いたしましょう。
甘利 左衛門 これを奉る
永禄8年 11月10日
それ<から少しして、<池田 佐渡守 重安>父子は嶽山城を引き払い岩櫃城へと移ってきたので嶽山城の斉藤兄弟の力は激減しました。
斉藤兄弟の企みを知った<真田 一徳斎 幸隆>公は即座に諸将に下知を出し、自らは黒糸縅の鎧と鍬形を打った兜を身につけ三尺五寸(約110センチ)の太刀を穿き十文字の槍をさげ、荒井黒と名付けた名馬に白覆輪の鞍を置き、己を先駆けとして300騎9の兵を引き連れて美濃原の向こうにある仙蔵の城へと駆け上がり軍を指揮したのでした。 このとき、先陣を賜ったのは
斉藤兄弟も嶽山城を出て600騎余りをつれて美野原の高台へ押し寄せました。
<西窪 冶部 左衛門>が<秋間 備前>を討ち取り押さえつけて首を欠き切ると、斉藤家の<早川 源蔵>が100人余りを引き連れて<西窪 冶部 左衛門>を取り囲み、ついに<西窪 冶部 左衛門>は討ち取られました。 <真田 一徳斎 幸隆>公の下でその様子を見ていた<蜂須賀 伊賀>が走り出し<早川 源蔵>へと討ちかかりましたが返り討ちにあいました。 その騎を逃さず武田軍の
日も傾き夕方になったころ、斉藤軍がほら貝を吹いて嶽山城へと戻っていきました。
武田軍の人々は明日になってから合戦を再開するのでは遅いと言い、夜中から嶽山を取り巻き登山口に竹束を立てて城攻めの口上もたてずに大声でわめいて攻めかかりました。 一の木戸の所で<唐沢 杢之助>が討ち死にしました。
この嶽山城という城は岩石がそびえ立ちあまりにけわしい城であり、平家物語で有名な倶利伽羅ヶ城と言えども適わぬほど攻め憎い城でありましたが、斉藤兄弟は嶽山城が難攻不落であることに頼りすぎて前日に兵士を残らず城に入れ籠城したために滅びる事になったのでした。 <斉藤 城虎丸>は嶽山城本丸の北にある天狗の峯に駆け上りましたが、武田軍が隙間無く襲い掛かってきましたので、天狗岩から飛び降り、そのまま落ちてついに岩石に当たり微塵になって亡くなりました。 斉藤家にお使えしていた女房達はそこかしこの岩まで降りた後にそこから飛び降りて下の岩場に重なって落ちていきました。そうして本丸には誰も残りませんでした。
こうして無人となった嶽山城には<池田 佐渡守><川原 左京><鎌原><湯本>を留め置き、戦の顛末を甲府へ報告した後に<真田 一徳斎 幸隆>公は岩櫃城にお住みになられました。
翌年(永禄9年)に新原稿から嶽山合戦で討ち死にした人々の家族へ御感状と領地安堵の御證文が下されました。 「 信玄公の判子 父<西窪 冶部>が嶽山で戦死するほど(武田家へ)忠信を持って下さった事に感動いたしました。ですので知行などの事は今まで通り間違いなく武田家に相談してください。
永禄九丙辰年 三月晦日
「 信玄公の判子 父<唐沢 杢之助>が嶽山の一の木戸口で討ち死にした(武田家への)忠節に感動いたしました。ですので知行のことは今まで通り間違いなく武田家に相談してください。
永禄九丙辰年 三月晦日
<蜂須賀 伊賀>も討ち死にしたので息子の<蜂須賀 舎人>へも同じような證文が下されました。 また、生き残った吾妻衆達にも御感状と領地安堵の御證文が下されました。 「 去年11月、嶽山の一の木戸口あたりにおいて強敵<早川 源蔵>を討ち取り、其の身も数箇所の傷を追いながら素晴らしい勝負をしたと真田から報告を受けました。
永禄九丙辰年 三月晦日 信玄 判子
<富沢 六郎三郎>にも同じような御感状が下されました。<富沢 六郎三郎>は<富沢 十兵衛>」の父です。 |
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