嶽山合戦 斎藤越前太郎 併 城子丸兄弟 最後之事
  
  • 其の一 斉藤越前太郎が嶽山城へと戻る   
  • 其の二 池田父子が斉藤家を裏切る   
  • 其の三 幸隆公、仙蔵の城へ駆け登る   
  • 其の四 嶽山城炎上 斉藤越前太郎と城虎丸の最期   
  • 其の五 論功行賞
  • ・其の一 斉藤越前太郎が嶽山城へと戻る

    <斎藤 越前太郎 憲宗>は岩櫃城から落ち延び北国の<長尾 伊賀守>を頼り、魚沼郡早川の郷に住んでいましたが、一度故郷に帰りたいと企て、長尾家と栗林家から少々加勢を賜り、諸国の浪人をかき集めて500騎余りをひきつれて吾妻郡へと向かいました。

    永禄8年10月下旬に嶽山城に到着し、弟の<城子丸>と一緒になってから白井城の<長尾 左金吾 憲景(一井斎)>にも援軍を要請し、中山家、尻高家、小川家そして<赤松 可游斎(後の小川 可游斎)>からの援軍を得、総勢2000騎余りの軍勢を整え旗を揚げたのでした。
    岩櫃城に詰めている者達にとっては思っても見なかった事態であったため、城の中は大混乱に陥りました。しかし、<真田 幸隆>公や<真田 信綱>公、そして真田の兄弟達は武略に優れたツワモノでありましたのでこの混乱も物ともせず、城を固く守らせてから
    ・<富沢 但馬入道>
    ・<唐沢 杢之助>
    ・<植栗 安芸守>
    を嶽山城へと使いにやりました。

    三人は<斉藤 越前守 太郎 憲宗>にだけ聞こえるように細々と口を開きました。

    「我等が大将である<真田 一徳斎 幸隆>公からのお言葉をお伝え申し上げます。
    <斉藤 太郎>殿がここ数年北国でお暮らしになっていた事は内々に<武田 晴信>公へと取り成しております。一度、太郎殿の願いを叶えて差し上げたく申し上げます。
    岩櫃城に残っている元斉藤家の家臣達にも話しましたが、私は昔<村上 義清>との戦にやぶれて真田庄を失い、上州の<長野 業政>殿の下で浪人として過ごした後に真田庄へと戻りました。
    この度の和議が整いましたら、私が甲州の武田家へと取り成し<斉藤 太郎>殿を<矢沢 頼綱>殿の婿としましょう。その後に元の所領へとお帰しいたしましょう。」

    <斉藤 越前守 太郎 憲宗>は
    「それは誠か。」
    と喜び、<真田 一徳斎 幸隆>公の申す通りに和議をまとめ、加勢に来てくれた武士達を帰し、武田の軍と人質を取り交わしたのでした。

    ・其の二 池田父子が斉藤家を裏切る

    講和を終えてから<真田 一徳斎 幸隆>公は<池田 佐渡守 重安>を招いて仰いました。

    「斉藤家の家臣や郎党など今まで恩を受けてきた面々が残らず心変わりしたというのに、貴方がた親子は今年に至るまで末子<斉藤 城虎丸>を盛り立てて来ました。これこそ武士の本分、有るべき姿です。 そうは言えど、斉藤家が武田家に反逆したことを<武田 晴信>公はとてもとても深く憤っております。このまま行けば、斉藤家への御誅罰が下されることは間違いないでしょう。

    貴方は元来<楠木 正成>の御子孫の一人ではありませんか。世の慣習に従い斉藤家の下に仕えていただけにすぎません。
    どうか私に力を貸して下さい。そして武田家の「忠信の臣」になってはいただけないでしょうか。
    そうしていただければ、貴方の領地を末永く保障する御證文を<武田 信玄>公から頂いてまいります。」

    この言葉を聞いて<池田 佐渡守 重安>は<真田 一徳斎 幸隆>公に味方することを約束しました。

    この事は早速甲府へと報告され<池田 佐渡守 重安>へ次のような所領安堵の御證文が下されたのでした。

    「そなたが今日に至るまで嶽山城に篭る斉藤家を立てて来た事は比べるものも無い程の忠信であり、心底感じ入りました。 この度真田から当家に忠信を預けていただけると聞き、その神妙な心がけに感動いたしました。そなたが治めていた山田郷150貫は今までどおり安堵いたしましょう。
    なお、戦功によりさらなる御重恩も与えましょう。

       甘利 左衛門 これを奉る

    永禄8年 11月10日
                                    池田佐渡守殿             」

    それ<から少しして、<池田 佐渡守 重安>父子は嶽山城を引き払い岩櫃城へと移ってきたので嶽山城の斉藤兄弟の力は激減しました。
    そこで<斎藤 越前太郎 憲宗>は白井・沼田から援軍を呼び無理やりにでも合戦を起こそうと思い立ちました。

    ・其の三 幸隆公、仙蔵の城へ駆け登る

    斉藤兄弟の企みを知った<真田 一徳斎 幸隆>公は即座に諸将に下知を出し、自らは黒糸縅の鎧と鍬形を打った兜を身につけ三尺五寸(約110センチ)の太刀を穿き十文字の槍をさげ、荒井黒と名付けた名馬に白覆輪の鞍を置き、己を先駆けとして300騎9の兵を引き連れて美濃原の向こうにある仙蔵の城へと駆け上がり軍を指揮したのでした。

    このとき、先陣を賜ったのは
    ・<鎌原>
    ・<湯本>
    ・<西窪>
    ・<横谷>
    ・<植栗>
    ・<大戸>
    ・<浦野>
    ・<池田>
    ・<富沢>
    ・<蜂須賀>
    の面々であり、城へと駆け上がる<真田 一徳斎 幸隆>公の前後を囲みお守りしたのは
    ・<丸山>
    ・<春原>
    ・<川原>
    ・<矢野>
    ・<小草野 新三郎>
    ・<上原>
    ・<座村野>
    ・<宮下>
    ・<山越>
    ・<深井>
    ・<原>
    ・<石田>
    ・<高井>
    ・<塩野>
    ・<川合>
    ・<山岡>
    ・<富沢>
    ・<一場>
    ・<高山>
    ・<桑原>
    ・<中沢>
    などの面々でした。

    斉藤兄弟も嶽山城を出て600騎余りをつれて美野原の高台へ押し寄せました。
    戦闘がはじまってすぐに<真田 一徳斎 幸隆>公の下から<西窪 冶部 左衛門>が駆け出し、斉藤家の先陣である<秋間 備前>と<大野 新三>と戦いました。

    <西窪 冶部 左衛門>が<秋間 備前>を討ち取り押さえつけて首を欠き切ると、斉藤家の<早川 源蔵>が100人余りを引き連れて<西窪 冶部 左衛門>を取り囲み、ついに<西窪 冶部 左衛門>は討ち取られました。

    <真田 一徳斎 幸隆>公の下でその様子を見ていた<蜂須賀 伊賀>が走り出し<早川 源蔵>へと討ちかかりましたが返り討ちにあいました。 その騎を逃さず武田軍の
    ・<春原>
    ・<川原>
    ・<矢野>
    ・<丸山>
    ・<山越>
    ・<鎌原>
    ・<湯本>
    達が抜き連なって大声を上げながら攻めかかりました。



    昼から午後2時までの間に七度の合戦があり、斉藤家の家臣達を200人ほど討ち取りましたがお味方も150人ほど討ち取られました。

    日も傾き夕方になったころ、斉藤軍がほら貝を吹いて嶽山城へと戻っていきました。

    ・其の四 嶽山城炎上 斉藤越前太郎と城虎丸の最期

    武田軍の人々は明日になってから合戦を再開するのでは遅いと言い、夜中から嶽山を取り巻き登山口に竹束を立てて城攻めの口上もたてずに大声でわめいて攻めかかりました。

    一の木戸の所で<唐沢 杢之助>が討ち死にしました。
    <湯本 善太夫>がその相手(吾妻郡の伝説だと<早川 源蔵>となっています)を討ち取りましたので<斉藤 越前太郎 憲宗>は
    「わが夢は叶わなかった。これまでだ。」
    と腹を十文字に掻き切りました。御年38歳でした。

    この嶽山城という城は岩石がそびえ立ちあまりにけわしい城であり、平家物語で有名な倶利伽羅ヶ城と言えども適わぬほど攻め憎い城でありましたが、斉藤兄弟は嶽山城が難攻不落であることに頼りすぎて前日に兵士を残らず城に入れ籠城したために滅びる事になったのでした。

    <斉藤 城虎丸>は嶽山城本丸の北にある天狗の峯に駆け上りましたが、武田軍が隙間無く襲い掛かってきましたので、天狗岩から飛び降り、そのまま落ちてついに岩石に当たり微塵になって亡くなりました。

    斉藤家にお使えしていた女房達はそこかしこの岩まで降りた後にそこから飛び降りて下の岩場に重なって落ちていきました。そうして本丸には誰も残りませんでした。
    この時の骸骨は今も残っております(現在、骨穴と呼ばれる場所に白い薄い石が多数残っていますが骨かどうかはわかりません。また、数年前から骨穴へ通じる登山道は消されています。)

    こうして無人となった嶽山城には<池田 佐渡守><川原 左京><鎌原><湯本>を留め置き、戦の顛末を甲府へ報告した後に<真田 一徳斎 幸隆>公は岩櫃城にお住みになられました。

    ・其の五 論功行賞

    翌年(永禄9年)に新原稿から嶽山合戦で討ち死にした人々の家族へ御感状と領地安堵の御證文が下されました。

    「  信玄公の判子

      父<西窪 冶部>が嶽山で戦死するほど(武田家へ)忠信を持って下さった事に感動いたしました。ですので知行などの事は今まで通り間違いなく武田家に相談してください。

        

          永禄九丙辰年 三月晦日 
                               西窪 蔵千世殿             」

    「  信玄公の判子  

      父<唐沢 杢之助>が嶽山の一の木戸口で討ち死にした(武田家への)忠節に感動いたしました。ですので知行のことは今まで通り間違いなく武田家に相談してください。 

          永禄九丙辰年 三月晦日
                              唐沢 お猿殿 (後の唐沢 玄蕃)     」

    <蜂須賀 伊賀>も討ち死にしたので息子の<蜂須賀 舎人>へも同じような證文が下されました。

    また、生き残った吾妻衆達にも御感状と領地安堵の御證文が下されました。

    「 去年11月、嶽山の一の木戸口あたりにおいて強敵<早川 源蔵>を討ち取り、其の身も数箇所の傷を追いながら素晴らしい勝負をしたと真田から報告を受けました。
     比類無き武功にございます。 恩賞として羽尾領の内から林村の中の20貫文を加増いたします。
     なお戦による重恩を加える予定です。

         永禄九丙辰年 三月晦日   

                                  信玄  判子
                              湯本 善太夫殿             」

    <富沢 六郎三郎>にも同じような御感状が下されました。<富沢 六郎三郎>は<富沢 十兵衛>」の父です。

     

     

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