唐沢玄蕃 中山 尻高 両城忍之事 附金の馬鎧之事  

天正年間の始め頃、中山城と尻高城は白井の<長尾 一井斎 憲景>に従っておりました。

そのうえ両方の城とも守りの堅い落としにくい城であったので武田家に臣従した吾妻勢は度々苦境に陥りました。
そこで
「忍者を忍び込ませて城を焼き落とす。」
と軍議が定まりまして<唐沢 玄蕃>に命令が下りました。

<唐沢 玄蕃>は<割田 新兵衛尉>と相談し、尻高城に忍び込み放火をしました。

次に中山城へ忍び込むと城内では酒宴が開かれており、城主の<中山 平形 安芸守>が鼓(つづみ)をうっておりました。

<中山 平形 安芸守>は鼓(つづみ)を打つのがあまりに下手すぎて100回打っても一度もポンと鼓(つづみ)の音を鳴らすことが出来ないので世間では
「中山殿の鼓であるので百一つ(万が一にもそんな事はありえない)」
とことわざのように言われるほどでした。

やがて夜も更け酒宴も終わり皆眠りに就きました。夜回りの者共も油断しておりましたので<唐沢 玄蕃>は中山城の納戸に忍び込みそこかしこを探っているうちに金の馬鎧を見つけました。
<唐沢 玄蕃>は
「これはこの上ない良い機会だ。」
と思い、放火をせずに金の馬鎧を盗んで帰ってしまいました。

この金の馬鎧は<中山 平形 安芸守>が関東管領家の<上杉 憲政>へ出仕した時に関東管領家から拝領した宝物でした。

<唐沢 玄蕃>は金の馬鎧を大変気に入り、戦の度にこの馬鎧を自分の馬に着せて出陣しました。

ある年、<武田 信玄>公は西上州へと軍を進めておりました。このとき<唐沢 玄蕃>は真田家の下で働いておりましたので<武田 信玄>公の目に止まる事ができました。

<武田 信玄>公は<真田 信綱>公をお呼びになられて
「あの『金の馬鎧』は昨年、武州の松山合戦の時に見たことがある。このように(戦続きで)乱れている世の中で『金の馬鎧』は二つと見られる宝物ではない。あの『金の馬鎧』の持ち主は何者か。」
とお尋ねになられました。

<真田 信綱>公は
「あれは<唐沢>にございます。」
とお答え申し上げたので、<唐沢 玄蕃>は思わぬ所で名を上げることができたのでした。

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